映画ログ

これまで観てきた映像作品の備忘録

グラン・トリノ


かつてフォードの自動車工場で働いてきたウォルトは、妻を亡くし、息子や孫たちの存在を疎ましく思いながら、1人残された家で暮らしてきた。そんなある日、隣家にモン族の一家が引っ越してきて、ウォルトは「イエロー」がやってきたと嫌悪感をあらわにする。その一家の末っ子・タオは、ギャングの一味である従兄弟からけしかけられ、ウォルトの家の車庫に眠る名車グラン・トリノを盗もうとするが、その現場をウォルトに目撃されてしまう——。

朝鮮戦争に兵士として参加し、その後は自動車工として働き続けた老人の視点から、デトロイトの町の荒廃、移民の増加、異文化の接触とそれに伴う抗争、朝鮮戦争が残した心理的な爪痕、工員仲間や地域住民との独特なコミュニケーション・・・などなどが描かれている。個人的に特に面白かったのが、ウォルトが馴染みの理髪店主人と悪口雑言を交わしながら、そのやりとりを「男同時の話し方(how guys talk)」としてタオの教示するシーン。ウォルトと理髪店主人との、口汚い、しかしたしかに互いへの配慮があるやりとりがとても興味深い。

年明けに観た「ダーティ・ハリー」にも共通することだが、クリント・イーストウッドの作品は、司法における正義や、キリスト教的な倫理観にしたがうことを一貫して拒否する、人びとの道徳性や正義感のようなものに光を当てているように思える。また、「グラン・トリノ」では、デトロイトにおける移民の増加や、第二次産業の衰退にともなう地域の衰退といった状況がどのようなものなのかを感じ取ることができる。

あと、ウォルトが芝の手入れに余念がない様子が印象的だった。

何者


朝井リョウ原作。就職活動に打ち込んでいたタクトは、バンドを引退してこれから就活に入ろうとする同居人コータローと、海外留学していたミヅキ、ミヅキの知り合いであるリカと協力しながら、就職活動に挑んでいく。大学時代、演劇に励んできたタクトであったが、演劇仲間でみずから劇団を立ち上げた友人らを「さむい」と評しながら、Twitterに就活のノウハウをつぶやき続けている・・・。

新卒一括採用の慣習のなか、みずから人生の選択を迫られる若者たちのあいだのシニシズムを描いた作品。私を含め、本作のタクトのような「冷笑」的な感情をもつ日本人は、今日少なくないのではないだろうか。

ルーム


5歳になった男の子ジャックは、母親と一緒に「へや」で暮らしていた。「へや」には天窓があり、ベッドがあり、クローゼットがあり、トイレがあり、お風呂があった。日曜日には「差し入れ」があって、男が食料などを持ってきてくれる。何日かに1度の夜、その男は部屋にやってきて、そのあいだジャックはクローゼットのなかで寝ていなければならない。ジャックは「へや」から出たことがなかったが、「へや」の外は宇宙空間で、そこにはTVの世界が広がっていると思っていた。しかしある日、母親は自分の名前がジョイであることをジャックに告げ、「へや」の外には「世界」が広がっていると伝える——。

実の父親による娘の監禁・近親相姦・強姦事件(フリッツル事件)を題材にした作品。

印象に残っているシーンのひとつは、「へや」を出て「家」で暮らし始めたジャックが、義理の祖父であるレオとはじめて会話をするところ。「へや」を出てからというもの、ジョイ以外の人びとを怖がっていたジャックだが、「へや」で食べていたシリアルを食べながら、はじめてレオと話をする。ジャックはなぜ、レオと会話する気になったのだろうか。ジャックに対するレオのふるまい方がおもしろい。

ふたつめ、「へや」から出たジャックとジョイが、実の祖父母、そしてレオの5人で食事をするシーン。祖父は、食卓に座るジャックを直視することができない。7年ぶりに再会した娘の子であると同時に、娘を誘拐した犯人の子でもあるジャックの存在を受け入れることができない祖父の様子が見て取れる。私を含めた観客にとってのジャックは、「へや」で母親となかよく暮らしていた愛らしい子どもであるが、祖父にとってのジャックは必ずしもそのような存在ではない。「へや」のなかとは別の時間が流れ、別の「世界」が経験されていたのだということを痛感させられる。

最後のシーン、ジャックとジョイは、ふたたび「へや」を訪れる。ジャックは、「へや」に残されたイス、洗面台、クローゼットたちに "bye" と別れを告げて、また外の「世界」へと戻っていく。ジョイを含めた他の人びとから見れば、凄惨な事件の現場であり、忌むべき記憶が想起される場所である「へや」は、ジャックにとって、5歳になるまでのすべての時間を過ごしてきた、愛すべきモノたちの残る場所である。そこにはやはり、外の「世界」とは異なる、ジャックにとっての〈世界〉があったにちがいない。

フィッシュストーリー


パンクの波が来るには少し早すぎた1975年、売れないパンクバンドがつくった曲「フィッシュストーリー」が、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な展開で世界を救う、という話。

正直、映画が始まってすぐに、こういうストーリーであることは予想がついたが、それでも、異なる時空間を行き来しながら、なんの“因果”か「フィッシュストーリー」と結びつきをもってしまった人びとを描いていく展開は、観ていておもしろかった。

とはいえ、映画最後のタネ明かしを観たあとでも、「フィッシュストーリー」という曲が世界を救った、とはどうしても考えにくい。

たしかに、濱田岳演じる男子大学生が女性を救う決断をする際には「フィッシュストーリー」がバックに流れるが、彼の決断を決定的に後押ししたのは、直前に別の女性を助けられなかったことへの後悔であったようにも、少なくとも観る側には理解できる。

それに、その男子大学生が自分の息子を「正義の味方」として育てようとしたのが、「フィッシュストーリー」の影響によるものだったかどうかについては、映画のなかでは明らかにされていない。

このように、「フィッシュストーリー」という曲が世界を救った、と言えるような因果連関、あるいは出来事の連鎖が生じたと理解することは、少なくとも僕にとっては少々無理があるなあという感想をもった。

映画自体はフツーにおもしろい。

ザ・スクエア 思いやりの聖域


スウェーデンの映画で、2017年のパルム・ドール受賞作品。

現代美術館のキュレーター、クリスティアンは、新たな展示として、すべての人が平等な権利と義務をもち、公平に扱われる空間、「ザ・スクエア」を企画していた。そんなとき、クリスティアンは道端で女性を助けようとした際に、財布と携帯電話を盗まれてしまう。盗んだ犯人がいるアパートを突き止めたクリスティアンは、アパートのすべての部屋に、彼の持ち物を返すよう記した脅迫状を投函するが、これがさらなる災いを呼んでしまう・・・といった展開。

「信頼と思いやりの空間」=「ザ・スクエア」の外に広がる日常生活においては、様々な偏見、無関心、不信、差別、不寛容・・・が蔓延していることを描いた作品。

話の本筋とはあまり関係ないが、かなり脚色が入っていると想像するものの、スウェーデンの街並みで物乞いする人たちがかなり図太くておもしろかった。

 

ホームレス中学生

お笑いコンビ「麒麟」の田村裕原作の作品。住居の差し押さえによって、その家族、特に子どもたちがどのような状況に置かれることになるのかを見て取ることができる。

特に印象的だったのは、住む場所を失くしながらもたくましく生きていた主人公・ひろしが、亡き母が生き還らないことを悟ることで、生きようとする意志を失ってしまうというストーリー展開。公園で段ボールを食べながら生きていたひろしは、その後、住む家と離ればなれになっていたきょうだいを取り戻しながらも、母親という存在を「失う」ことによって、生きることを「しんどい」と思うようになる。このことは、生きる意志の喪失が、必ずしも家のような物理的な欠乏によってではなく、家族をはじめとする人間関係の欠落によってもたらされるということを示唆している。

「お母さんを失ったあのときから、ぼくらはみな、ホームレスでした。」