映画ログ

これまで観てきた映像作品の備忘録

許されざる者


クリント・イーストウッド主演・監督作品。

19世紀アメリカのとある街の酒場で、カウボーイが娼婦をナイフで切りつける事件が起きる。しかし、保安官であるリトル・ビルは、犯人のカウボーイたちが「職のない流れ者とは違う」「まじめに働いてる」として、犯人たちが馬7頭を酒場の主人に譲り渡すことで事件を収める。この処分に不服の娼婦たちは、みずからのあり金を集め、2人のカウボーイの首に1000ドルの賞金を懸ける。これを聞きつけた若い男キッドは、カンザスの田舎で暮らす伝説的な殺し屋ウィリアム・マニーに、カウボーイ殺しの話を持ちかける。

西部劇にはそれほど馴染みがないが、公安職として幅広い裁量と権力を行使する保安官を「本当の悪党」と位置づけ、アウトローとされる人物がそれに制裁を下すという構図は、一般的に“正義”や“道徳”を体現するとみなされる存在の“不正義”や“不道徳”な側面を暴露し、それらと対立する“正義”や“道徳”を描き出すという、イーストウッド作品に通底するモチーフが、本作においても見いだせる。

同時に、本作は「最後の西部劇」とも称される作品である。その真意はまだわからないが、作品中の以下のセリフは、殺人と暴力が渦巻く西部劇はもはや過去のエンターテイメントであると伝えているかのようであった。

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キッド「信じられねえ。あいつ、2度と息をしない。死んだなんて。もう1人もだ。引き金を引いただけで……」

マニー「殺しは非道な行為だ。人の過去や未来をすべて奪ってしまう」

キッド「連中は自業自得だ」

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しかし、このやりとりが交わされた直後、友人が保安官らによって拷問された末に殺されたことを知ったマニーは、保安官とその仲間たちを酒場で射殺する。そこには果たしてどのような意味が込められているのだろうか。

ボヘミアン・ラプソディー


ロックバンド「クイーン」のリードボーカルでありパフォーマーフレディ・マーキュリーの生涯を描いた作品。

立川シネマシティの極音上映で鑑賞したが、ラストのLive Aidシーンは圧巻。ただ、クイーンの音楽の素晴らしさを身に纏っているものの、映画としての本作のクオリティは必ずしも高くないと思う。たとえば、LGBTへのステレオタイプにもとづくような描写も少なくない。

カンパニー・メン


巨大企業「GTX」の造船部門で販売部長として働いていたボブは、リーマン・ショックの影響を考慮した人員整理によって突如解雇されてしまう。腕利きの営業マンとして年収16万ドルを稼ぎ、豪華な邸宅を構えポルシェを乗り回していたボブは、すぐに次の職が見つかるだろうと、就職支援センターに足を運ぶ。しかし、無意味な再就職セミナーを受講し、履歴書を大量に送ってもなお、仕事は決まらず、ボブとその家族の生活は次第に不安定になっていく。

リーマン・ショックの煽りを受けた大量解雇によって失業したサラリー・メンとその家族の生活が、次第に、しかし着実にその安定を失っていくさま。しかし、そうした新たな環境に対して、これまで維持してきた生活の“型”を適応させていくことの難しさ。それらを如実に描いた作品。たしかに、主人公であるボブは、そうした困難さを乗り越え、新たな生活の“型”を模索していく。しかし、そこに至る道程は険しく、また新たな生活それ自体も決して安定したものであるとは言えない。

本作のポスターは、英語版と日本語版で、そこに記された言葉がかなり違っている。

日本語版:「どんなときも、上を向こう。」

英語版:「In America, we give our lives to our jobs. It's time to take them back.」

本作の内容は、日本語版ポスターにある言葉のようなものではまったくなく、どちらかといえば英語版ポスターのそれに近い。しかし、私が本作をみて理解したのは、どちらのポスターにも描かれた絵に示されているように、サラリー・メンとして雇用され働くことを中心とした生活が、今日いかに「綱渡り」のようなものと化しているのかということである。

 

グラン・トリノ


かつてフォードの自動車工場で働いてきたウォルトは、妻を亡くし、息子や孫たちの存在を疎ましく思いながら、1人残された家で暮らしてきた。そんなある日、隣家にモン族の一家が引っ越してきて、ウォルトは「イエロー」がやってきたと嫌悪感をあらわにする。その一家の末っ子・タオは、ギャングの一味である従兄弟からけしかけられ、ウォルトの家の車庫に眠る名車グラン・トリノを盗もうとするが、その現場をウォルトに目撃されてしまう——。

朝鮮戦争に兵士として参加し、その後は自動車工として働き続けた老人の視点から、デトロイトの町の荒廃、移民の増加、異文化の接触とそれに伴う抗争、朝鮮戦争が残した心理的な爪痕、工員仲間や地域住民との独特なコミュニケーション・・・などなどが描かれている。個人的に特に面白かったのが、ウォルトが馴染みの理髪店主人と悪口雑言を交わしながら、そのやりとりを「男同時の話し方(how guys talk)」としてタオの教示するシーン。ウォルトと理髪店主人との、口汚い、しかしたしかに互いへの配慮があるやりとりがとても興味深い。

年明けに観た「ダーティ・ハリー」にも共通することだが、クリント・イーストウッドの作品は、司法における正義や、キリスト教的な倫理観にしたがうことを一貫して拒否する、人びとの道徳性や正義感のようなものに光を当てているように思える。また、「グラン・トリノ」では、デトロイトにおける移民の増加や、第二次産業の衰退にともなう地域の衰退といった状況がどのようなものなのかを感じ取ることができる。

あと、ウォルトが芝の手入れに余念がない様子が印象的だった。

何者


朝井リョウ原作。就職活動に打ち込んでいたタクトは、バンドを引退してこれから就活に入ろうとする同居人コータローと、海外留学していたミヅキ、ミヅキの知り合いであるリカと協力しながら、就職活動に挑んでいく。大学時代、演劇に励んできたタクトであったが、演劇仲間でみずから劇団を立ち上げた友人らを「さむい」と評しながら、Twitterに就活のノウハウをつぶやき続けている・・・。

新卒一括採用の慣習のなか、みずから人生の選択を迫られる若者たちのあいだのシニシズムを描いた作品。私を含め、本作のタクトのような「冷笑」的な感情をもつ日本人は、今日少なくないのではないだろうか。

ルーム


5歳になった男の子ジャックは、母親と一緒に「へや」で暮らしていた。「へや」には天窓があり、ベッドがあり、クローゼットがあり、トイレがあり、お風呂があった。日曜日には「差し入れ」があって、男が食料などを持ってきてくれる。何日かに1度の夜、その男は部屋にやってきて、そのあいだジャックはクローゼットのなかで寝ていなければならない。ジャックは「へや」から出たことがなかったが、「へや」の外は宇宙空間で、そこにはTVの世界が広がっていると思っていた。しかしある日、母親は自分の名前がジョイであることをジャックに告げ、「へや」の外には「世界」が広がっていると伝える——。

実の父親による娘の監禁・近親相姦・強姦事件(フリッツル事件)を題材にした作品。

印象に残っているシーンのひとつは、「へや」を出て「家」で暮らし始めたジャックが、義理の祖父であるレオとはじめて会話をするところ。「へや」を出てからというもの、ジョイ以外の人びとを怖がっていたジャックだが、「へや」で食べていたシリアルを食べながら、はじめてレオと話をする。ジャックはなぜ、レオと会話する気になったのだろうか。ジャックに対するレオのふるまい方がおもしろい。

ふたつめ、「へや」から出たジャックとジョイが、実の祖父母、そしてレオの5人で食事をするシーン。祖父は、食卓に座るジャックを直視することができない。7年ぶりに再会した娘の子であると同時に、娘を誘拐した犯人の子でもあるジャックの存在を受け入れることができない祖父の様子が見て取れる。私を含めた観客にとってのジャックは、「へや」で母親となかよく暮らしていた愛らしい子どもであるが、祖父にとってのジャックは必ずしもそのような存在ではない。「へや」のなかとは別の時間が流れ、別の「世界」が経験されていたのだということを痛感させられる。

最後のシーン、ジャックとジョイは、ふたたび「へや」を訪れる。ジャックは、「へや」に残されたイス、洗面台、クローゼットたちに "bye" と別れを告げて、また外の「世界」へと戻っていく。ジョイを含めた他の人びとから見れば、凄惨な事件の現場であり、忌むべき記憶が想起される場所である「へや」は、ジャックにとって、5歳になるまでのすべての時間を過ごしてきた、愛すべきモノたちの残る場所である。そこにはやはり、外の「世界」とは異なる、ジャックにとっての〈世界〉があったにちがいない。