映画ログ

観た映画の備忘録

「真夏の方程式」

 

ガリレオの映画化第2弾。

個人的には前作の「容疑者xの献身」のほうが好きだった。前作で堤真一が迫真の演技をしていたのも大きいが、今回の作品は、テーマは前作と同じでありながら構図を複雑に、重層的にすることで前作を乗り越えようという意図が見受けられる一方で、それがややシンプルなインパクトというか、ストレートな展開を妨げている感じがした。ただ、「科学」というものを念頭においたとき、今回の福山雅治演じる湯川学の口から多くの名台詞が発せられていた。


1.やはりテーマは「人間の愛=合理性に対する非合理性」

これは、前回の「容疑者xの献身」と同じテーマ。合理性の化身と言ってしまってもいい湯川学に対する、人間の非合理性が生み出す罪。これが、映画版ガリレオというかガリレオという作品自体の1つのパターンなのかもしれない(原作は『容疑者xの献身』しか読んだことないから厳密には何とも言えないが)。

前作「容疑者xの献身」では、堤真一演じる数学者・石神哲哉が、論理的な道筋を立てて真実を隠ぺいしようとするが、その動機となったのは、隣人である母娘への深い「愛」であった。その非合理的な感情のうえに完璧に築かれた論理は、結局湯川学によって暴かれるわけだが、それは彼自身の手によっては実証することができない。しかし、最後の結末で、石神が築き上げてきた論理は、隣人の母親の非合理的な行動=自首によってもろくも崩れてしまうのである。

今作は、そのテーマである「愛」が、さらに入り組んだ構図になっている。前作のような一方向的な「愛」ではなく、家族という1つの集団のなかで、相互に「愛」が向けられている。今回の場合、湯川学以外に論理や合理性といったものを操る人物は出てこないが、この入り組んだ「愛」が、彼の行く手を阻むものとなっている。


2.社会から切り離された「償い」と、社会になかにおける「償い」

これが、前作と今作の違いかなと感じたところ。前作では、最終的に母親が自首するという形で、罪を背負った人間が「償い」を果たそうとする。それは要するに投獄することであって、社会から切り離された形での「償い」である。湯川学は、前作のトリックを明らかにする際に、「この問題を解決しても、だれも幸せにならない」と言う。そして事実、母親が自首する場面において、湯川は何もできずただ苦悶の表情を浮かべるのである。

今作はこの点において異なる。最終的に罪を背負うことになるある人物は、湯川学に自首することをほのめかす。しかし、湯川はそれを推奨しない。彼は、その人物にはある使命があると言う。それは、一連の事件のなかで気づかないうちに罪を背負うことになってしまったある人物に、真実を告げるという使命である。その使命こそがその人物の「償い」であることを湯川は訴える。

前作では、結局、罪を背負う人物が社会から切り離された形で「償い」を受けることで、「だれも幸せにならない」結果となってしまった。一方で今作は、罪を背負う人物が、他の人物を守るという社会のなかでの「償い」を果たすことで、その守られるべき人物の幸せは保護されようとしている。すなわち、不幸のための「償い」から、少なくとも何かしらの幸のための「償い」へと変化している。ここが、前作から今作における進化というか、物語としての進展ではないかと感じた。

そしてこの「償い」には、湯川学自身も加わろうとする姿勢が見て取れる。

「きみがその答えを見つけるまで、ぼくもいっしょに考える。いっしょに悩み続ける。――焦るな、君は1人じゃない」。

 

3.その他、科学についてとか

その他について、1つは、「科学」に対する湯川学の姿勢、考えというのが如実に表現されている台詞が多く、個人的にすごくビビッときた。

「僕の興味は真理を追究することだ。真理というのは、人類が正しい道を進むために、この世界がどうなっているのかを教えてくれる地図のようなものだ。その地図をつくるのが科学の役目だ。」

うーん、科学者ってカッコええなあ。しびれる。これは社会科学も同じ使命をもっていると言えるだろう。

あともう1つ、吉高由里子が出ているガリレオを初めて見たけど、かなり妖艶な雰囲気を醸し出していていい感じだった。ただ、福山とコンビを組むのはやっぱり柴咲コウのほうが合ってるなーという印象。

ただ、吉高由里子は個人的にすきなので、もっと出てるシーン増やせやあああとか思いながら観ていましたまる。